特命転勤 毎日新聞を救え

1986年頃からの話、大阪本社の土地を売却してデジタル化に対応した新社屋を建設する。建物だけでなく設備投資も必要なため、なるべく高値で売りたい。その結果バブルを助長したかもしれない。

毎日新聞はもともと大阪が発祥で大阪本社では「本社」意識が強い、東京は実質的に本社機能があり社を支えているという意識がある

毎日が低迷したきっかけ
・1966 大森実 外信部長の退社
ベトナム戦争の記事に米国から抗議があり、事実を伝えたにも関わらず退社に追い込まれた、そうした対応への批判
・1971 外務省の機密漏洩事件
政治部の記者が外務省の女性職員から不正に情報を得ていた
・1977 経営陣の派閥抗争
新社旧社に分離したが、事態はよくなっていない
再建案は中途半端で経営の自由も確保されず、ビジョンもない、抜本的改革ができず、現在の苦境につながっている
毎日の経営危機が経営陣の派閥抗争のためということは、マスコミ界の常識

パレスサイドビルを取得

過去記事のデータベース化

販売局の政策は古い経営者を優遇し若手の活力を奪う。若手が販売区域を広げると分割、割譲させられた。

担当員(地域の販売店の統括)になれば家がたつ。販売店の利益が搾取されているという疑惑

経営企画室の各局担当から、「皆さんぜひ、いい再建案を作ってください」(自分達で考えられない)

政治家は結婚式と葬式を大事にする、中曽根首相みずから実践

汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう、竹下登蔵相

他の新聞社は戦災にあって古い写真を焼失、毎日は田舎に疎開させていたため、戦前の貴重な写真が残っている

記事データベースの難問
・投資に50億、データ入力に5億
・方針さえ決まらない
・多くの技術者と時間が必要

日経との業務提携によるデータベース構築
最近のものほど閲覧させる
3年を超えたものはほとんど閲覧されない
生の原稿だけでなくコラムや連載などがよく読まれる
日経の軍門に下るとは何事か、編集部から批判
昭和62(1987)年11月2日メディア事業としてスタート

長期的に社の将来を展望すると、大改革と新しいビジネスモデルを構築しない限り、数年先に行き詰まるのは明らかだった

基幹産業の苦境は交際費の削減というかたちで影響する、銀座のクラブが閑散としている

日銀は公定歩合を引き下げて金融緩和し、景気は上向いているというけど、そんなの嘘、お金はほとんど不動産にまわって産業界には回っていない

局長を替えたらプロジェクトが動き出した:何かやろうとしたら人事です。人をどう使うか、政治はそれが大切なんです、竹下登

大手の不動産じゃだめ、どうしても採算を考えるから安く買おうとする、ほかの元気な業界をあたってみたら

ポスト山内をめぐる陰湿な争い:会って話せば誤解もとけるが、それができない

渡辺新社長
執行部にはリーダーシップが不足
毎日新聞には独自に物事を決定する自由もその気力もなく、銀行が決定権を握っていた

十桁までの記入欄しかなく、百億円を越える入力ができない、担当者もその仕組みを知らなかった

63(1988)CI:コーポレート・アイデンティティーの導入
企業としての個性をはっきりと打ち出、商品にもそれを反映させて消費者の信頼を勝ち取る

活字の変更を提案
扁平で字体が太く読みにくい
インクの量が多く、紙面が黒っぽくなり、手も汚れる
技術担当は
変えるなんてとんでもない
古い読者から読みやすいという手紙を何通ももらっている
新聞のなかでもっとも親しまれている活字なんだ

土地を売却して1500億円を手にしたが、経営陣は新しい販売政策の構築や記者の教育、取材網の拡充などの改革には目を向けなかった

この現金による延命措置は真の再建策をつくるまでには至らなかった、それどころかジャーナリズムの原点である言論の自由、表現の自由が失なわれようとしていた

1994(H6)退職

読み終わりました
土地売買の裏側が主な内容でしたが、毎日新聞の歴史の一端が知れて面白かったです。ただ、筆者も最後は愛想をつかして退職されているので、この先どうなることやら。明るい未来にはほど遠いですね。

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